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関係性と個体について

未分類

風が吹けば桶屋が儲かる

風、砂、盲人、三味線、猫、ネズミ、桶、桶屋

この例は、全ての事物には因果性、関係性があるという例えだと思っていたが、00年代以降の現代思想(ポストポスト構造主義(?))をあたると、
関係性なんてものはなく、各々の事物は各々が自由気ままに振舞っているだけでその結果生まれている状況を見て、
存在しない因果性、関係性を見出してしまっているだけ、誤認しているだけという捉え方が多い。


ポストポスト構造主義として取り上げられる思弁的実在論(Speculative Realism(SR))という一派について。
主要メンバーは、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、クァンタン・メイヤスーの4人である。
それぞれの姿勢は異なるが、イマヌエル・カント以来の哲学や、相関主義(Correlationism)を乗り超えようとするという点で共通している。


千葉雅也や星野太の解説を借りると、

メイヤスーは、思弁的唯物論(マヌエル・デランダもこの言葉を使う)として、
極端な偶然性の哲学を提示していて、この世界はある時突然、偶然性により何の理由もなく発生したとしている。
(このことにより、因果性、関係性などは、偶然に起こった状況に対して後付けされるものでしかないといえる(?))

ハーマンは、オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology(OOO))として、絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトについての理論を組み立てる。

絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトをハーマンの説明を借りると、
あるオブジェクト全体を、統一オブジェクトと呼び、
統一オブジェクトの中には、感覚的オブジェクト(というレベル?)があり、
その下に実在的オブジェクト(のレベル?)がある。
そして、感覚的オブジェクトが、実在的オブジェクトの存在を魅惑、暗示している。
(魅惑:allure / 暗示:allusion)

関係しているように見えるオブジェクトAとオブジェクトBがあるとを仮定すると、
AとBは、感覚的オブジェクト(のレベル?)では、相互に「関係」し、
AとBは、実存的オブジェクト(のレベル?)では、絶対的に「孤立」、独立している。

このようにハーマンは、オブジェクト同士は、関係しつつ孤立しているという立場をとる。




00年代以降の新しい哲学の流れとしての、SR的、OOO的なうまい解釈を探してみる。


例えば、ハンマーと釘。
ハンマーと釘の、打つもの打たれるものという関係は、人間側の誤認的な、勝手な決めつけな決めつけであって、実際はハンマーと釘、そのもの以外なにものでもない。

従来の分析哲学や、大陸哲学では、ハンマーは打つもの、釘は打たれるもの、というように、オブジェクトそのものではなく、それらに対する人間のアクセスのみの関心を向けていると、ハーマンらは批判している。
(アクセスを中心に考えることは、人間を主体(Subject)とし、そのほかを、客体もしくは対象(Object)としてとらえている)

ハーマンの魅惑の考えを使って説明すると、ハンマーは打つもの、釘は打たれるものという感覚的オブジェクトを持っていて、それらを見た人間は、何の関係のない2つの間にも関係性を誤認させられてしまう(?)。




別の例をあげれば、大きな木と、その木陰で休む人間がいる風景。
そのとき、木と人間の間には関係性はあるのか。
木は光を浴びようと葉を広げるだけで自由気ままに振舞っていて、人間は日光をさえぎる何かを求めて振舞う。
自由気ままに振舞うそれぞれの固体が、偶然に同じ場所に存在している結果、それを見た人間が勝手に関係性を見出してしまっているだけ誤認しているだけではないか。

一つの状況のなかで、それぞれ個体の振る舞いを外から見た人間が、繋がりを勝手に想像しているだけで、因果性、関係性なんてものはこの世に存在しなくて、気ままに振る舞う個体たちが存在している、とされる。
言い方を変えると、それぞれオブジェクトの、感覚的オブジェクトを外から見た人間が関係性を勝手に想像しているだけで、オブジェクトそのもの同士に関係性なんてものは存在しない、とされる。



以下、引用

(3つのインスタレーションについて)それぞれの要素は直接的な結び付きを持っているわけではないが、
同時刻、同じ場所に存在することによって、因果関係が生まれているように見える。
このことから言えるのは、私たちが普段見出している関係性の束は、
すべて事後的に見出されたものであるということである。
おのおのの個体の関係性について、
ツリーであるとかセミラティスであるといったことは、事後的に説明できるかもしれないが、
実際にそこにあるのは、関係性ではなくそれぞれの個体である。
(新建築 2015年07月 i saw a girl with a telescope についての永田康祐のテキストより)


また、関係性と建築について、
建築家・平田晃久は、自身の建築理論「からまりしろ」を説明するときに子持ち昆布の例を出す。
以下の引用部分であげられる、他者性と階層性について、
結果的に他者の間で、関係性、階層構造が発生していると触れられている。
ここまで触れている関係性と個体の捉え方とまったく逆の意味としてとっている。

以下、引用

こうしたことを考えているうちに思い至ったのが「からまりしろ」の原理です。
空間の内部をコントロールするという20世紀的な建築概念ではなく、
何かがからまっていく余地やきっかけを作ることを建築の根本的な概念に据え、
新しい建築の原理をつくれないかという問題意識からスタートした考えです。
生き物の世界に目を向けると、木の枝に鳥の巣がからまっていたりするように、
あるものが別のものにからまっていることが多いことに気づかされます。
子持ち昆布もそのひとつで、よく見ると魚の卵が海底の海藻にからまっており、
その海藻も海底のデコボコした岩にからまっていて、さらにこの岩も下の地層にからまっている。
ここで重要なのは、「他者性」と「階層性」の2点です。
先ほどの樹と人の関係の話と同様、魚と卵、昆布と海底もまた、
もともとは他者だけれども結果的に関係性が発生したものとなっています。
さらに、「魚の卵」「昆布」「岩」の間には階層構造があります。
特にこの階層性は非常に建築的な原理だといえるのではないかと思っています。
私の建築はこの図式にほぼ縮訳されると言うことすらできます
(10+1 ウェブサイト「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性 4P目 平田プレゼンより)


同様に、平田は、飛行機から見下ろしたアルプス山脈とその山脈に沿う雲について、[アルプス/雲]として、階層構造を持つ関係性を表現する。
そして、一見複雑に見えることの成り立ちでも1番単純なところは簡単な階層構造からなるとしている。


上での引用の平田の挙げた例えについて、前半で触れているSRのような捉え方で表現してみる。

永田の表現にならって書くと、
直接的に結び付きを持っているわけではない(他者性を持つ)昆布とニシンが、同じ時刻の同じ場所に存在し、それぞれ自由気ままに振る舞った結果、子持ち昆布という状況が生まれる。
その状況に対して、事後的にツリー(階層構造)という関係性を見出すことができるが、実際そこにあるのは、昆布とニシン、それぞれの個体である。





まとめ(?)
OOOやSRなど、ポストポスト構造主義的な流れをきちんと理解しているわけではないが、
いくつか資料に当たったので書いてみた。
切断というのは平田のテキストよりも、同じ10+1記事内の門脇耕三のエレメント主義と近いのかもしれない。
だらだらと書いてみたが、設計に対してどう使っていくのかだろうか。
いろいろ行き来しすぎて落としどころがわからなくなってしまった。。。


参照
現代思想 2015年06年 特集=新しい唯物論
第一哲学としての美学 グレアム・ハーマンの存在論 星野太(現代思想2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015より)
動きすぎてはいけない 千葉雅也
ポストドゥルーズ実在論を探る(https://www2.chuo-u.ac.jp/philosophy/info/web.pdf
建築のオブジェクトをめぐって 平野利樹(http://toshiki-hirano.com/menu/network_object/?lang=ja
新建築 2015年07月号
10+1 ウェブサイト「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性(http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-01.php
建築とはからまりしろをつくることである 平田晃久