170104

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特定の誰と誰が、とは言わないけど、
デザインの仕事をしている人、建築の設計の仕事をしている人、
自分(たちが)が、社会の中で特別な存在だと思いすぎではないかなと思いました。
別に、他のすべての仕事と同じものではないですか??

なにが、ソーシャルなんとかだよ。。。
自分は、構造設計の仕事をしている人のことを構造屋さんて呼んでるだろうに、
ほかの仕事の人に、設計屋って呼ばれたら怒りませんか??


デザイン学科という呼ばれるところで、
授業を受けているその中での僕の個人的な感覚として、
社会を変えるだとかの使命感だったり、社会的な意義だったりについて、
そんなこと知らんがな死ねや、
とは口に出してはいけないという感じがなんとなくあります。

それを言うとおそらく、デザイナー先生建築家先生は、
アートならそれでも良いけどね、っていう言い方をします。
アートよりデザインの方がすごいものだと思っているような(端から見ればそう見える)教員と、
アートに対して一定の尊敬を持っている(ようにみえる)教員が混在しているので、
一概にその言葉についてはなんとも言えません。


社会的な意義なんて知らんがな死ねや、
とまでは思いませんが、
僕自身は、それよりももっと小さなこと、
なんというか、
単純に形態そのものについてや、その形態の発生している由縁であったり、
形態やその状況の意味の不明さいうものであったりのほうに関心があったりなかったりします。

これとか最近良く見ています。
vimeo.com


大学の設計課題の中で、なんか建築家のそれっぽい文章を書いたり、消したりとしていたけど、
おえー、っとなっていたので少し書きました。




ooooo


追記 0

飯島先生か誰かが言っていたことですが、
資本主義の象徴とも言える高級ホテル、
ハイアットグループが選んでいるプリツカー賞で、
社会性に強く関心を持ち活動しているアレハンドロ・アラヴェナが選ばれた、というのも
今考えると、
社会性は無視できないものになっているこの時代の機運かもしれません。

アラヴェナの、集合住宅の図面をオープンソース化のプロジェクトを以前全訳したものがこれ。
ysok-na.hatenablog.com




ooooo


追記 1

社会的意義至上主義(?)について、
これが今の建築だという隈の論考を飯島先生に教えて貰いました。

新建築2017年1月号
【建築論壇】
グローバリゼーションのあとにくる建築
アート・エコノミーからシェア・エコノミーへ

資本主義(アート・エコノミー)の中で、
アーティストとしての振る舞った磯崎に対して、
今の時代(シェア・エコノミー)の中では、
みんなの家を作った伊東、負ける建築という考えに至った自分を挙げ比較している。




ooooo


追記 2

伊東豊雄のみんなの家のことや、
ヴィネチアヴィエンナーレ2016のことを思い出したので追記します。


建築の社会的な意義に関心を向けなければいけない状況になっていることについて、
それを象徴するような建築や、展示がありました。


伊東のみんなの家は、

普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。

これもヴィネチアヴィエンナーレに出展されました。
itojuku.or.jp





ヴィネチアヴィエンナーレ2016の日本館が、
テーマが「 en[縁]:アート・オブ・ネクサス 」と掲げられ、
現代の共同体をテーマとした建築の社会的な意義というものに関する展示であったようです。
審査員特別賞をもらっています。

2016.veneziabiennale-japanpavilion.jp
casabrutus.com


以下、プレスリリースより引用(https://www.jpf.go.jp/j/about/press/2015/dl/2015-031.pdf

ステートメント
若年層を中心に失業が慢性化し、格差や貧困の度合いが日々昂進している今日の日本において、戦後の「高度経済成長」はもはや遠い過去の歴史的事象のようなものとなってしまった。近代日本の「経済成長」とともに創りだされた建築作品のいくつかは世界に誇れるものであったが、輝ける日本の「近代建築の変化100年」は、前回のヴェネチア・ビエンナーレ日本館において「現代建築の倉」に収蔵され、「高度経済成長」をピークに生み出された建築作品の数々はすでに歴史家の対象となっている。

情報環境を劇的に変化させたインターネットの普及など、時代の指標となる事象はさまざまにあるが、競争原理をその核にすえた新自由主義は、戦争やテロ、放射性物質による環境汚染などと異なり、すぐ目の前にある脅威とはとらえにくいものの、いまや社会の隅々にまで浸透してその屋台骨を深く蝕んでいる。とはいえ、「進歩」といった大きな物語、メタ物語が社会のエンジンとして駆動したモダンの時代、そして高度成長期とは異なり、こうした現状、動向に抗して目標となる未来の姿を描いてそこに向かっていくこともできず、われわれの社会には閉塞感のようなものが暗く、重く覆いかぶさっている。

そしてさらに 3.11 以降の喪失感が加わったなかで、日本の社会は大きな転換期を迎えており、近代国家の描いた「都市における幸せな家族像」が崩壊する一方で、「“SHARING”(価値観やライフスタイルなどを共有)する新たな共同体」が出現しはじめている。このような時代にわれわれの建築はどのようにつくられているのか。そして、どこへ向かおうとしているのか――われわれがいま注目するのは、その多くが、モダン・ムーヴメントのプロパガンダ装置であった建築雑誌などを華やかに飾るようにも、また、近代国家を形成してきたこれまでの建築の枠組みのなかでそれらを大きく変えるような力を秘めているようにも――少なくとも表面上においては――見えない建築群である。それは、今までの社会のあり方、それぞれのさまざまな関係性、すなわち本展のテーマである「縁」を変えることに重点を置いているからと考えられる。

本展では、大きな物語やなんらかの旗印のもと、モダン・ムーヴメントに見られたような運動体を形成するということなく、直面した状況課題に対して、それぞれ個々に戦われているその戦いの多様な様相を見てみようと思う。困難な状況を超えて生き延びる(survive)ためのこの最前線(front)での戦いは、まだ胎動を始めたばかりのものが多いかもしれないが、社会変革のベースをつくっていく、そんな潜在可能性をもっている。
山名善之

3.11 以降の喪失感に対してということで、それ以後の建築の姿をみせるということでしょうか。
3つの en に分けて展示されたうちのひとつに、ヒトのenというものがありますが、
縁側とか共有スペース、中間領域だとか、
そのようなふわっとしたつまらない提案に思えます。。。


社会的意義至上主義(?)の建築作品、全然魅力的に思えないのは僕だけですか。



ooooo


頭に載せた画像は、
とりあえずわかりやすい人がいたので載せただけで、
藤村龍至がそういうタイプだとか個人的に嫌いだとか、そういう意図は特にないです。
藤村の著作「批判的工学主義の建築」、前半部分はすごくしっかりしているのでおすすめです。
共著で出している「設計の設計」では、
共著者から結構厳しく突っ込まれて、それについてうまく答えられていませんが、
松川昌平の章の、かかたかたちについての部分が面白いのでおすすめです。