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htmlとCSS

未分類

webサイトを作った。

naysok.org



各ページはhtmlで最小限だけ書いて、そこでは装飾をせずに、1つもしくは幾つかのCSS(jsも)で一括でスタイルを管理できるのが便利だと思った。


イラレで、複数ページの文書、ポートフォリオ的なものを作るときに、1ページ目を修正したから、他のnページ分それぞれ全て修正しないとというのがアホくさく見える(イラレでもできるのかもしれないし、InDesignでやれやっていうものかもしれませんが)。

僕がイラレが下手くそなのか、イラレがそういうものなのかわからないが不便に思えることもある。

道具と作品、表現

未分類

絵が模型がめちゃくちゃ上手い
ソフトウェアがめちゃくちゃ使える

それは、良い彫刻刀を持っているだけであって、良い彫刻が作れるかどうかとは全くの別物では。

f:id:ysok_na:20170226015046j:plain

小学生の時に買う5本か6本の子ども用の彫刻刀セットは、(おそらく)刃の鋭さよりも手入れしなくて良い事を優先したような刃であるし、基本的な数種類の刃先のものしか入っていない。

それらに加えて、良い材質ですごく綺麗に掘れるものや、特殊な形の刃先のものを手に入れれば、子ども用のセットでは作れない、ダイナミックな、複雑な彫刻を作ることが出来る。

良い彫刻刀を持っていれば、表象として良く見える彫刻が出来る(かもしれない)が、彫刻(作品)そのもの、表現の本質的なところではそれは違うのでは、という話を、ある優秀なアドオンを触っていて少し思い出した。

優秀なアドオン → Weaverbird – Topological Mesh Editor | Giulio Piacentino


作家(何かを表現することを生業にしている人間)の立場にいる大野さんにもっと色々つっこんで聞いておけばよかった。

表象として良く見える、悪い作品なんでもない作品てどんな…



良い彫刻刀を持っている知っているからこそ、それからインスピレーションを受けて、表現の幅が広がると言われれば、確かにそうなのですが。



もっと言ってしまうと、表現のもととなるインスピレーションを求める(歴史や文脈を探る、ピンタレストでネタを探す、人と話してアイデアを広げるetc)こと、それも良い彫刻刀を探しに行っているだけという、どこまでが道具でどこからが作品の本質かという話になってしまいそうで。

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成果(物)と、その過程

未分類

f:id:ysok_na:20170205190750p:plain
面白い記事を見かけた。
クロップ監督はショックを隠し切れず「全ての批判を受け入れなければ」 | サッカーキング



f:id:ysok_na:20170205190757p:plain
記事より引用

リーグタイトルが遠ざかったことについては、
「それは私の中で最も大きな問題ではない。
私はこのチームでもっと良いフットボールをしたい。
我々はシーズンで成し遂げるべきことを示さなければいけない。
我々はこれまでにそれを何回か、しかしはっきりと一貫して示してきた。
これは、何よりもまず我々が変えなければいけないものだ」
とコメントし、目標の修正を示唆。

スポーツにおいて、特に優勝することを請われて監督をしているのに、
優勝が遠くなることを大きな問題ではない、それよりも良いフットボールをと言ってるけど...



結果(成果)と、その過程について考えることがあるが、それについて良い例かもしれない。


例えば、
アジアの弱小国に負けた試合後、
本田圭佑が「自分たちのサッカーができてよかった」と言ったら、どうなるのだろうか
f:id:ysok_na:20170205191700p:plain
自分たちのサッカー の検索結果→Google



別の例を挙げれば、
めちゃくちゃ押し込まれていて、チームは良いところなし、しかし、審判の誤審でPKを貰い、決めて試合に勝った。
そのような時、渋谷のファンはスクランブル交差点でハイタッチするのだろうか。
f:id:ysok_na:20170205192224p:plain
ハイタッチ→日本代表戦で恒例となった“渋谷ハイタッチ”。痴漢も発生する迷惑行為は今すぐ自制せよ | フットボールチャンネル | サッカー情報満載!


良い成果(物)と、良い過程は、必要十分条件ではないのだとわかる例。

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170205

最近、ちょっと調べてまとめているものなのですが、名和晃平のDirectionという作品が気になっています。

形態言語というのかあやしいのですが、
なにかしらのルールと、それによる形があること、
その関係が見つけられなくても(知らなくても)成立しているという作品の形も気になります。

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「アセンブル_共同体の幻想と未来」展

未分類

表参道のGYREでやっていたAssembleというアートユニット、集団(彼らのHPでは、collectiveと自称している)の「アセンブル_共同体の幻想と未来 展」という展示を見に行った。

assemblestudio.co.uk
f:id:ysok_na:20170322095936p:plain
表参道のGYREにて建築家集団ASSEMBLEの展覧会「アセンブル_共同体の幻想と未来」展が開催 | RETOY’S web Magazine


いくつかのプロジェクトが、それらは公共的な利益性が強いように見える、写真や映像などによって示されていたされていた。

どのプロジェクトも何も考えずに見れば、ポップで親しみやすい良い建築だと思えるけど、展示タイトルに掲げられた共同体って言葉や、テクストを読むとやっぱり…とも思えた。

a+uの2014年12月号 特集:建築家たちのエクスペリメントのインタビューなどからも)

この頃の諸々、昨年のゼミや、新建築2017年1月のクマ論文などからも感じていることですが、こじんてきにはうーんと思うこともあった。

ゼミではツバメアーキテクツの山道さん千葉さんにお話を聞いた↓
ysok-na.hatenablog.com


アセンブルのプロジェクトや、伊東のみんなの家を、多くの人が絶賛する空気が、建築を作るときには公共の利益や社会性を最優先しようね!(芸術)表現はなんておかしい!社会が大事でしょ!と、弾圧というか同調圧力に見えてしまう。

公共性、社会的利益を待たなくても、見た目だけでも良い建築があれば、テンション上がるじゃんとか思います(金沢に行った人たちが100パーセント写真を撮ってくる、金沢駅の門なんて機能的には何の意味もない建築では?)。

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170115

現代思想

ポスト・ポスト構造主義のエステティクス / 千葉雅也+清水高志
現代思想2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 より)

清水のセール、千葉のドゥルーズ




第一哲学としての美学 グレアム・ハーマンの存在論 / 星野太
現代思想2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 より)

ハーマンは、オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology(OOO))として、
絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトについての理論を組み立てる。

絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトをハーマンの説明を借りると、
あるオブジェクト全体を、統一オブジェクトと呼び、
統一オブジェクトの中には、感覚的オブジェクト(というレベル?)があり、
その下に実在的オブジェクト(のレベル?)がある。
そして、感覚的オブジェクトが、実在的オブジェクトの存在を魅惑、暗示している。
(魅惑:allure / 暗示:allusion)

オブジェクトAとオブジェクトBがあるとを仮定すると、
AとBの、感覚的オブジェクト(のレベル?)では、相互に「関係」し、
AとBの、実存的オブジェクト(のレベル?)では、絶対的に「孤立」、独立している。








参照
青土社 ||現代思想:現代思想2014年1月号 特集=現代思想の転回2014

青土社 ||現代思想:現代思想2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015

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形態の成り立ち、由縁

未分類

170104のdirectionについての補足(?)


f:id:ysok_na:20170107091406p:plain
多摩美北側バス停前を敷地としたコンプレックスの設計。

(170106の提出の仮テキスト)
多様な活動を受容し、それらをつなぐ場を目指した。

まずそのような場として、
古代ギリシアアテネで採用されていたアゴラを参照とした。
アゴラとは、神殿や役所のような施設、店舗などを周辺に配した広場である。
そこでは人々がを集会を行ったり、酒を呑みながら熱く議論したり、
多様な活動が行われていたという。
アゴラに倣い、広場を中心にその周辺にそれぞれの機能を置くこととした。

広場には、影を落としたくなかったので、ボリュームを北側に寄せたが、
そのままでは、柚木街道側から巨大な壁のよう圧迫感が生まれてしまうと予想された。
それは避けたいので、左右にボリュームを割り中央から広場に抜けの空間をつくることで、
壁のような圧迫感が消し、加えて広場に良い開放感が生まれた。


ボリュームの置き方が決まり、さらに、建築の形状を決めていく。
そこでは、従来の柚木街道を東から進んでくるときに、
一番最初に見えてくる多摩美の建築である本部棟や絵画棟の
ぼこぼことした特徴的なファザードのイメージを反復させた。

これらの建物では、少しだけ張り出した2階の軒下や、
踊り場と廊下のどちらとも呼べない場、入り組んだ廊下の曲がり角、
なんとも言えない空間の隅で、自由気ままに過ごす人が多く見受けられる。
ぼこぼことした形状に引っかかれるような、
なんとなくたむろできるような絶妙な空間が生まれていた。

ボコボコとしたイメージを反復することで、
ふらっと来てついつい長居してしまうちょうど良い空間、
心地よい時間を過ごせる絶妙な空間を探せる余地、とっかかりを作ることができた。

アゴラの参照は何億番煎じなの?ということ、
引っかかりは平田のからまりしろのパクリでは?ということはここでは言及しません。



前回書いた、

単純に形態そのものについてや、その形態の発生している由縁であったり、
形態やその状況の意味の不明さというものであったりのほうに関心があったりなかったりする

について

別の言い方をすると、
何もないところから、えいや!っと線を描き色を塗るのには抵抗があって、
その設計がどのように設計されているか、
その形態がどのようなことに紐づけられているか、
そのあたりを明確にしながら制作をしていきたいという感じです。

そういうこともあり、今の段階だと、
最初にのせたプレゼンボードの画像のように、長々とテキストを書いてあります。



教員からは、いちいち由来なんていいから、
プレゼンのときはどんな活動をするどんな空間を作ったかどうかだけ話しなさいと言われました。
形態の成り立ちについてをだらだらとしゃべらなくてもいいという指導と、
設計に際して考えなくても良いということは、別なので教員の指導がおかしいという意味ではないですが、
その成り立ちについて、自分は関心があるのでプレゼンでもだらだら喋りたい気もします。

プレゼンでだらだら喋るのかどうかを別にしても、
物そのものよりも、物とその成り立ちとの間、物のその背後にあるなにかが気になっているので、それを追いかけたいと思っています。
(やばい何かやばい建築を凄いなとは思うことがありますが)

その形態がどのように設計されているかをまず考えていきたいということについてに
設計の過程ではなく、成果物の質に執着しろ。
何かを作る人としては、まずは作品そのものの魅力を第一に考えるべきでは?
という指摘があったので、後で追記します。



形態の由縁の考え方について、文脈とともに評価されている作品として教えてもらったものなど(調べ次第随時追加)

マルセロ・デュシャンの泉(1917)
男性用便器に架空の人物のサインをしたもの。
レディメイドの概念の発生。

ジャクソン・ポロックのポーリング、ドロッピング(1943-)
カンバスと離れた刷毛から絵の具を落とす手法(アクションペインティング)で抽象絵画表現を探求。

ジョン・ケージ4分33秒(1952)
実験音楽家のケージが無音の不可能性に対して制作。

磯崎新群馬県立近代美術館(1974)
師・丹下健三の独自のプロポーションによる美の解体を目指し、
1200mmのグリッドを基準に設計している。




やばい何かやばい建築
f:id:ysok_na:20170107100020j:plain
f:id:ysok_na:20170107100147j:plain




参照

磯崎新をどのように読み継ぐか──批評・手法・歴史をめぐって
浅田彰京都造形芸術大学教授)×岡﨑乾二郎(美術家・批評家)×日埜直彦(建築家)
http://10plus1.jp/monthly/2014/10/issue-01.php

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170104

未分類

f:id:ysok_na:20170104100506j:plain

特定の誰と誰が、とは言わないけど、
デザインの仕事をしている人、建築の設計の仕事をしている人、
自分(たちが)が、社会の中で特別な存在だと思いすぎではないかなと思いました。
別に、他のすべての仕事と同じものではないですか??

なにが、ソーシャルなんとかだよ。。。
自分は、構造設計の仕事をしている人のことを構造屋さんて呼んでるだろうに、
ほかの仕事の人に、設計屋って呼ばれたら怒りませんか??


デザイン学科という呼ばれるところで、
授業を受けているその中での僕の個人的な感覚として、
社会を変えるだとかの使命感だったり、社会的な意義だったりについて、
そんなこと知らんがな死ねや、
とは口に出してはいけないという感じがなんとなくあります。

それを言うとおそらく、デザイナー先生建築家先生は、
アートならそれでも良いけどね、っていう言い方をします。
アートよりデザインの方がすごいものだと思っているような(端から見ればそう見える)教員と、
アートに対して一定の尊敬を持っている(ようにみえる)教員が混在しているので、
一概にその言葉についてはなんとも言えません。


社会的な意義なんて知らんがな死ねや、
とまでは思いませんが、
僕自身は、それよりももっと小さなこと、
なんというか、
単純に形態そのものについてや、その形態の発生している由縁であったり、
形態やその状況の意味の不明さいうものであったりのほうに関心があったりなかったりします。

これとか最近良く見ています。
vimeo.com


大学の設計課題の中で、なんか建築家のそれっぽい文章を書いたり、消したりとしていたけど、
おえー、っとなっていたので少し書きました。




ooooo


追記 0

飯島先生か誰かが言っていたことですが、
資本主義の象徴とも言える高級ホテル、
ハイアットグループが選んでいるプリツカー賞で、
社会性に強く関心を持ち活動しているアレハンドロ・アラヴェナが選ばれた、というのも
今考えると、
社会性は無視できないものになっているこの時代の機運かもしれません。

アラヴェナの、集合住宅の図面をオープンソース化のプロジェクトを以前全訳したものがこれ。
ysok-na.hatenablog.com




ooooo


追記 1

社会的意義至上主義(?)について、
これが今の建築だという隈の論考を飯島先生に教えて貰いました。

新建築2017年1月号
【建築論壇】
グローバリゼーションのあとにくる建築
アート・エコノミーからシェア・エコノミーへ

資本主義(アート・エコノミー)の中で、
アーティストとしての振る舞った磯崎に対して、
今の時代(シェア・エコノミー)の中では、
みんなの家を作った伊東、負ける建築という考えに至った自分を挙げ比較している。




ooooo


追記 2

伊東豊雄のみんなの家のことや、
ヴィネチアヴィエンナーレ2016のことを思い出したので追記します。


建築の社会的な意義に関心を向けなければいけない状況になっていることについて、
それを象徴するような建築や、展示がありました。


伊東のみんなの家は、

普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。
普通にダサくて、これが正義だ!と言われると結構萎えます。

これもヴィネチアヴィエンナーレに出展されました。
itojuku.or.jp





ヴィネチアヴィエンナーレ2016の日本館が、
テーマが「 en[縁]:アート・オブ・ネクサス 」と掲げられ、
現代の共同体をテーマとした建築の社会的な意義というものに関する展示であったようです。
審査員特別賞をもらっています。

2016.veneziabiennale-japanpavilion.jp
casabrutus.com


以下、プレスリリースより引用(https://www.jpf.go.jp/j/about/press/2015/dl/2015-031.pdf

ステートメント
若年層を中心に失業が慢性化し、格差や貧困の度合いが日々昂進している今日の日本において、戦後の「高度経済成長」はもはや遠い過去の歴史的事象のようなものとなってしまった。近代日本の「経済成長」とともに創りだされた建築作品のいくつかは世界に誇れるものであったが、輝ける日本の「近代建築の変化100年」は、前回のヴェネチア・ビエンナーレ日本館において「現代建築の倉」に収蔵され、「高度経済成長」をピークに生み出された建築作品の数々はすでに歴史家の対象となっている。

情報環境を劇的に変化させたインターネットの普及など、時代の指標となる事象はさまざまにあるが、競争原理をその核にすえた新自由主義は、戦争やテロ、放射性物質による環境汚染などと異なり、すぐ目の前にある脅威とはとらえにくいものの、いまや社会の隅々にまで浸透してその屋台骨を深く蝕んでいる。とはいえ、「進歩」といった大きな物語、メタ物語が社会のエンジンとして駆動したモダンの時代、そして高度成長期とは異なり、こうした現状、動向に抗して目標となる未来の姿を描いてそこに向かっていくこともできず、われわれの社会には閉塞感のようなものが暗く、重く覆いかぶさっている。

そしてさらに 3.11 以降の喪失感が加わったなかで、日本の社会は大きな転換期を迎えており、近代国家の描いた「都市における幸せな家族像」が崩壊する一方で、「“SHARING”(価値観やライフスタイルなどを共有)する新たな共同体」が出現しはじめている。このような時代にわれわれの建築はどのようにつくられているのか。そして、どこへ向かおうとしているのか――われわれがいま注目するのは、その多くが、モダン・ムーヴメントのプロパガンダ装置であった建築雑誌などを華やかに飾るようにも、また、近代国家を形成してきたこれまでの建築の枠組みのなかでそれらを大きく変えるような力を秘めているようにも――少なくとも表面上においては――見えない建築群である。それは、今までの社会のあり方、それぞれのさまざまな関係性、すなわち本展のテーマである「縁」を変えることに重点を置いているからと考えられる。

本展では、大きな物語やなんらかの旗印のもと、モダン・ムーヴメントに見られたような運動体を形成するということなく、直面した状況課題に対して、それぞれ個々に戦われているその戦いの多様な様相を見てみようと思う。困難な状況を超えて生き延びる(survive)ためのこの最前線(front)での戦いは、まだ胎動を始めたばかりのものが多いかもしれないが、社会変革のベースをつくっていく、そんな潜在可能性をもっている。
山名善之

3.11 以降の喪失感に対してということで、それ以後の建築の姿をみせるということでしょうか。
3つの en に分けて展示されたうちのひとつに、ヒトのenというものがありますが、
縁側とか共有スペース、中間領域だとか、
そのようなふわっとしたつまらない提案に思えます。。。


社会的意義至上主義(?)の建築作品、全然魅力的に思えないのは僕だけですか。



ooooo


頭に載せた画像は、
とりあえずわかりやすい人がいたので載せただけで、
藤村龍至がそういうタイプだとか個人的に嫌いだとか、そういう意図は特にないです。
藤村の著作「批判的工学主義の建築」、前半部分はすごくしっかりしているのでおすすめです。
共著で出している「設計の設計」では、
共著者から結構厳しく突っ込まれて、それについてうまく答えられていませんが、
松川昌平の章の、かかたかたちについての部分が面白いのでおすすめです。

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レクチャー ツバメアーキテクツ

lecture

161207

現代建築論ゼミ
飯島洋一

テーマ
建築と大衆

ゲスト
山道拓人、千葉元生(ツバメアーキテクツ)
tbma.jp




山道+千葉のレクチャー

ツバメアーキテクツの構成
Design + Lab
space + social

5つの要素
Typology
Participation
Informal
Element
Transform

Typology:類型学
阿蘇草原情報館」
阿蘇のビニールハウスの反復と、桂離宮の庭とのつながる雁行の構成を参照。
建築の形態や、空間の作り方を学ぶ。
「旬八青果店」
ベトナムのホイヤンの商店を参照

Participation:参加
荻窪ワークショップ」
7回の事前ワークショップによって新築であるが、住人の要望によってリノベ後のような改善された建築となった。

Informal:脱制度的
「高島平の居酒屋」
居酒屋の昼の時間を寄合所的にタイムシェア
何とも言えない施設、昼から夜の移行の過程のなんとも言えない空間。
「牛久の歯医者」
休みの日は待合室をリビングにしてもよいのではないか。
(診察室の構造の表しがすごかった)

Element:部分
「朝日メディアラボ」
ベットや畳など様々な部分の集合としてのオフィス。
ギリシアアテネの、アゴラを参照。

Transform:変形
「朝日メディアラボ」
家具は様々な使い方をするオフィスのために可動式に。
「蔀戸の家」
アーティスト2人のための家。
二重構造の窓で、蔀戸という窓を採用し、いろいろな使い方をできる。




飯島洋一コメント

近代建築の体系化、エリートの歴史、それに対しての非エリートの存在。
その表れとして、トランプの勝利やSNSでの炎上。
3.11以後の建築の姿とは?
3.11以後の建築の例としてあげられる、
伊東豊雄らによるみんなの家はスターの建築である。
拙著「らしい建築批判」など。
エリートVS非エリート、スターVS民意
陪審員的な設計、専門家+アルファの設計なども伺える。
そんな時代の曲がり角的なタイミングで若い建築家にきていただいた。
一つあまり関係のない質問として
ツバメアーキテクツという名前の由来は?
(飯島は住宅特集 2000年08月号で「『崩壊の後で』ーユニットは建築批判」という論文を発表して、結構話題を呼んだらしい、それについて五十嵐太郎による解説がこちら)
tenplusone-db.inax.co.jp


山道+千葉

個人名でやらない。
ツバメは人の家の軒先を借りている、そのイメージがある。
象設計集団的な、動物路線。



質疑
学生の質問:Q
山道+千葉の回答:A

Q.1
ワークショプ的な設計によって建築は変わるのか?
また、トップダウンによる建築家のエゴ、磯崎新のような芸術家のような建築家はいなくなるのか?


A.1
ワークショップといっても様々なものがある。

ツバメの荻窪事前リノベーション
ヒアリングやリサーチといった色が強く従来の設計で拾いきれないものを拾い上げる。
ヒアリングであって、決定のところではない。
新井千秋の大船渡リアスホール
直接的な介入、具体的な形態や機能など。
アレハンドロ・アラヴェナ
新たな建築の発明を目指す、未知の可能性に向けたディベートなど。

トップダウンというのは必ずしも悪ではない。
形がすごいものでもうまい使い方というものがあるかもしれない
建築に対してそれぞれ使う人というものがいる。
公共施設と住宅は違うものであるし、芸術性が全くなくなるということはない。


Q.2
旬八青果店などの公共との関わりを見せてもらったが、
リチャード・セラの傾いた弧について
公共の場での芸術表現についての立ち位置は?

A.2
公共の場では、戦略的に。
人々が利益を受けれるように or 挑発的な表現。
傾いた弧では、批判を受けたが、
同じセラでも、カナダの空港の彫刻は、とても良い印象を人々に与え、来る人々を受け入れている。
(公共の場にはみ出している)旬八青果店について、ギリギリのゾーン。
同じように考えている屋台のプロジェクトなどがある。



最後に飯島より質問

自分たちの仕事は作品ではなくプロジェクトと呼んでいると話されていたが、
美というものの追求はどう考えるか?
篠原一男から磯崎新、そしてザハ・ハディドへ。
藤村龍至はこれについて答えられなかったが、
若手建築家のリアルとして、芸術性の追求や、重きの置き方は?


山道+千葉

様々な価値観の横断
ポストインターネットとして、価値観の移行があった。
小さな活動ー大きな資本

機能美とは違う実践の中での現実的な美というのものを探している。
建築家なしの建築であげられたような実践の中での美。
スイスのある村では、
1人の建築家がいくつかの建築を手がけると、その村の大工がそれを真似たため、
村全体がオリジナルとそのコピーが混在するが良い状況となっていた。



追記

山道さんFBよりお借りします。




====================

参照しているということをはっきり言うのが印象的。
参照元はその辺の現代建築ではなく、
建築家なしの建築のような、集落の教えのようなところからだった。

最後の美の追求についてのところでも、
無名の美、非エリートの中での美に触れていたが、

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関係性と個体について

未分類

風が吹けば桶屋が儲かる

風、砂、盲人、三味線、猫、ネズミ、桶、桶屋

この例は、全ての事物には因果性、関係性があるという例えだと思っていたが、00年代以降の現代思想(ポストポスト構造主義(?))をあたると、
関係性なんてものはなく、各々の事物は各々が自由気ままに振舞っているだけでその結果生まれている状況を見て、
存在しない因果性、関係性を見出してしまっているだけ、誤認しているだけという捉え方が多い。


ポストポスト構造主義として取り上げられる思弁的実在論(Speculative Realism(SR))という一派について。
主要メンバーは、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、クァンタン・メイヤスーの4人である。
それぞれの姿勢は異なるが、イマヌエル・カント以来の哲学や、相関主義(Correlationism)を乗り超えようとするという点で共通している。


千葉雅也や星野太の解説を借りると、

メイヤスーは、思弁的唯物論(マヌエル・デランダもこの言葉を使う)として、
極端な偶然性の哲学を提示していて、この世界はある時突然、偶然性により何の理由もなく発生したとしている。
(このことにより、因果性、関係性などは、偶然に起こった状況に対して後付けされるものでしかないといえる(?))

ハーマンは、オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology(OOO))として、絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトについての理論を組み立てる。

絶対にバラバラでありながら、関係もしているというオブジェクトをハーマンの説明を借りると、
あるオブジェクト全体を、統一オブジェクトと呼び、
統一オブジェクトの中には、感覚的オブジェクト(というレベル?)があり、
その下に実在的オブジェクト(のレベル?)がある。
そして、感覚的オブジェクトが、実在的オブジェクトの存在を魅惑、暗示している。
(魅惑:allure / 暗示:allusion)

関係しているように見えるオブジェクトAとオブジェクトBがあるとを仮定すると、
AとBは、感覚的オブジェクト(のレベル?)では、相互に「関係」し、
AとBは、実存的オブジェクト(のレベル?)では、絶対的に「孤立」、独立している。

このようにハーマンは、オブジェクト同士は、関係しつつ孤立しているという立場をとる。




00年代以降の新しい哲学の流れとしての、SR的、OOO的なうまい解釈を探してみる。


例えば、ハンマーと釘。
ハンマーと釘の、打つもの打たれるものという関係は、人間側の誤認的な、勝手な決めつけな決めつけであって、実際はハンマーと釘、そのもの以外なにものでもない。

従来の分析哲学や、大陸哲学では、ハンマーは打つもの、釘は打たれるもの、というように、オブジェクトそのものではなく、それらに対する人間のアクセスのみの関心を向けていると、ハーマンらは批判している。
(アクセスを中心に考えることは、人間を主体(Subject)とし、そのほかを、客体もしくは対象(Object)としてとらえている)

ハーマンの魅惑の考えを使って説明すると、ハンマーは打つもの、釘は打たれるものという感覚的オブジェクトを持っていて、それらを見た人間は、何の関係のない2つの間にも関係性を誤認させられてしまう(?)。




別の例をあげれば、大きな木と、その木陰で休む人間がいる風景。
そのとき、木と人間の間には関係性はあるのか。
木は光を浴びようと葉を広げるだけで自由気ままに振舞っていて、人間は日光をさえぎる何かを求めて振舞う。
自由気ままに振舞うそれぞれの固体が、偶然に同じ場所に存在している結果、それを見た人間が勝手に関係性を見出してしまっているだけ誤認しているだけではないか。

一つの状況のなかで、それぞれ個体の振る舞いを外から見た人間が、繋がりを勝手に想像しているだけで、因果性、関係性なんてものはこの世に存在しなくて、気ままに振る舞う個体たちが存在している、とされる。
言い方を変えると、それぞれオブジェクトの、感覚的オブジェクトを外から見た人間が関係性を勝手に想像しているだけで、オブジェクトそのもの同士に関係性なんてものは存在しない、とされる。



以下、引用

(3つのインスタレーションについて)それぞれの要素は直接的な結び付きを持っているわけではないが、
同時刻、同じ場所に存在することによって、因果関係が生まれているように見える。
このことから言えるのは、私たちが普段見出している関係性の束は、
すべて事後的に見出されたものであるということである。
おのおのの個体の関係性について、
ツリーであるとかセミラティスであるといったことは、事後的に説明できるかもしれないが、
実際にそこにあるのは、関係性ではなくそれぞれの個体である。
(新建築 2015年07月 i saw a girl with a telescope についての永田康祐のテキストより)


また、関係性と建築について、
建築家・平田晃久は、自身の建築理論「からまりしろ」を説明するときに子持ち昆布の例を出す。
以下の引用部分であげられる、他者性と階層性について、
結果的に他者の間で、関係性、階層構造が発生していると触れられている。
ここまで触れている関係性と個体の捉え方とまったく逆の意味としてとっている。

以下、引用

こうしたことを考えているうちに思い至ったのが「からまりしろ」の原理です。
空間の内部をコントロールするという20世紀的な建築概念ではなく、
何かがからまっていく余地やきっかけを作ることを建築の根本的な概念に据え、
新しい建築の原理をつくれないかという問題意識からスタートした考えです。
生き物の世界に目を向けると、木の枝に鳥の巣がからまっていたりするように、
あるものが別のものにからまっていることが多いことに気づかされます。
子持ち昆布もそのひとつで、よく見ると魚の卵が海底の海藻にからまっており、
その海藻も海底のデコボコした岩にからまっていて、さらにこの岩も下の地層にからまっている。
ここで重要なのは、「他者性」と「階層性」の2点です。
先ほどの樹と人の関係の話と同様、魚と卵、昆布と海底もまた、
もともとは他者だけれども結果的に関係性が発生したものとなっています。
さらに、「魚の卵」「昆布」「岩」の間には階層構造があります。
特にこの階層性は非常に建築的な原理だといえるのではないかと思っています。
私の建築はこの図式にほぼ縮訳されると言うことすらできます
(10+1 ウェブサイト「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性 4P目 平田プレゼンより)


同様に、平田は、飛行機から見下ろしたアルプス山脈とその山脈に沿う雲について、[アルプス/雲]として、階層構造を持つ関係性を表現する。
そして、一見複雑に見えることの成り立ちでも1番単純なところは簡単な階層構造からなるとしている。


上での引用の平田の挙げた例えについて、前半で触れているSRのような捉え方で表現してみる。

永田の表現にならって書くと、
直接的に結び付きを持っているわけではない(他者性を持つ)昆布とニシンが、同じ時刻の同じ場所に存在し、それぞれ自由気ままに振る舞った結果、子持ち昆布という状況が生まれる。
その状況に対して、事後的にツリー(階層構造)という関係性を見出すことができるが、実際そこにあるのは、昆布とニシン、それぞれの個体である。





まとめ(?)
OOOやSRなど、ポストポスト構造主義的な流れをきちんと理解しているわけではないが、
いくつか資料に当たったので書いてみた。
切断というのは平田のテキストよりも、同じ10+1記事内の門脇耕三のエレメント主義と近いのかもしれない。
だらだらと書いてみたが、設計に対してどう使っていくのかだろうか。
いろいろ行き来しすぎて落としどころがわからなくなってしまった。。。


参照
現代思想 2015年06年 特集=新しい唯物論
第一哲学としての美学 グレアム・ハーマンの存在論 星野太(現代思想2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015より)
動きすぎてはいけない 千葉雅也
ポストドゥルーズ実在論を探る(https://www2.chuo-u.ac.jp/philosophy/info/web.pdf
建築のオブジェクトをめぐって 平野利樹(http://toshiki-hirano.com/menu/network_object/?lang=ja
新建築 2015年07月号
10+1 ウェブサイト「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性(http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-01.php
建築とはからまりしろをつくることである 平田晃久

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G-code 3D Printing

3d_printer

161203 at ICTCO
金田さんワークショップ

普通にSTLをスライスするのとはまったく違う、
らせん状の、一筆書きのような、G-codeでプリントする。

G-code生成用のプログラムが用意されており、
いくつかのパラメータを設定すると、G-codeが作られる。
当日は金田さん所有のデルタ式プリンタで出力した。
(当日の写真は後で貼る)

Repetier-Hostで読めるG-codeができていたので、
お店のRepetier-Host対応の3Dプリンタ、Cubisで出力を試みるも、
デルタ式プリンタの座標体系でG-codeが作られていたので造形範囲に収まらなかった。
G-codeのテキストをgrasshopperを使って、X座標Y座標の修正をする。
f:id:ysok_na:20161227184915j:plain

間違えた場所など。
f:id:ysok_na:20161227184937j:plain
全部で63817行、作業完了。
f:id:ysok_na:20161227184951j:plain


後日、3DプリンタCubisにて出力した。
Gコード自体は問題なく、プリンターもきちんと動いたが、
送り出すフィラメントの量、ノズル径など、
プリンタのパラメータの調整がうまくいかず、造形はうまくいかなかった。
f:id:ysok_na:20161227184813j:plain
一筆書きの様子がわかる。
f:id:ysok_na:20161227184809j:plain
動きはいいんだけど積層が全然ダメ
www.youtube.com

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「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」千葉雅也

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「切断」の哲学と建築
──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
千葉雅也(哲学者)+平田晃久(建築家)+門脇耕三(建築家)+コメンテーター:松田達(建築家)+モデレーター:平野利樹(東京大学大学院隈研吾研究室)

10plus1.jp

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